第30話「二人の世界」
全てを包みこむ白光に、思わず目を閉じる。
そして、次に目を開けた時、レインの目の前に広がっていたのは、どこまでも真っ白な純白の世界だった。
何一つ、レイン以外のものが存在しない、白の世界。カリオンの姿さえない。
(何? どういうこと……?)
自分の置かれた状況が飲み込めず、レインは困惑した。
自分は何をしていたんだっけ?
……そうだ。カリオンと一緒に、先生やノアとかいう女の人の亡霊と戦っていて、それで、カリオンがリーサルウェポンを使って彼等を倒そうとして、それで、自分は……。
レインが少しずつ冷静になって来た頭で先程までに起こった出来事を思い出し始めた、その時だった。
『レイン』
不意に、彼女を呼ぶ声が聞こえた。
「……先生?」
聞き間違うはずもない。彼女がずっと求めていた、でも、もう二度と聞くことのできないはずのその声を。
『レイン。すまなかった』
直接頭に響くような、おぼろげな声。周囲を見渡しても、発信源は見つかりそうもない。
「先生? どこなの?」
それでも、レインは探し続けた。必死に目を凝らして、彼の姿を探した。
『君達に何も告げずに別れることになってしまって、本当にすまない』
「先生! どこなの!」
わかっていた。どこを探しても、彼の姿が見つかるはずがないと。
彼はもういない。どこにもいない。
でも、それでも、レインは探し続けた。探し続けるしか、なかった。
探すことをやめたら、彼の声が聞こえなくなってしまう。
確信もないのに、何故かそんな気がしたから。
『レイン。君に最期に伝えなければならないことがある』
最期、という言葉がレインの胸を容赦なく抉る。抉られた胸から血が吹き出すように、彼女の瞼にはうっすらと涙が浮かんだ。
だが、その瞼からこぼれ落とすようなことはしない。
そんな情けないところは、絶対に見せられない。
それが、彼に愛してほしいと願った、自分の強さだから。
『君達が戦おうとしている敵は、想像以上に強力だ。その正体の秘密は、恐らく古代史にある。この遺跡にも、重要な手がかりがあるはずだ。些細なところも、見落としてはいけない。君の鍛え上げられた観察眼を最大限生かすんだ。君なら僕と同等、いや、それ以上の情報を得られると思う』
「はい」と小さな声で呟く。その言葉は、尊敬する師である彼からの最期のアドバイスだった。
『君は僕以上の考古学者になるだろう。大げさかもしれないけど、僕の後継者は君しかいない。これからも、残された者達の力になってやってくれ』
イブリースの言葉が、次第に遠ざかっていく。それは、いよいよ最期の別れが近いことを意味しているのだろう。自然と、それを感じることができた。
ならば、今言うべき事は一つ。
生前、伝えられなかった言葉。
ずっとずっと、伝えられなかった言葉。
「先生……」
彼女は震える唇を開いて、小さく息を吸い込んで、言った、
「ありがとう」
イブリースは何も答えなかった。
でも、レインにはその時、イブリースがどんな顔をしたのか、手に取るようにわかった。
彼はきっと小さく肩をすくめて、そして、いつものように優しい笑顔を浮かべただろう。
いつも、自分を惹きつけてやまなかった、あの笑顔を。
「………バカ」
最期の別れを終え、レインはぽつりと呟いた。
「最期まで、仕事の話ばっかりなんだから……」
誰よりも考古学を愛してやまなかったイブリース。彼が考古学の話をする時の表情といったら、まるで冒険活劇を見る少年のようだった。自分やステラの気持ちになんて、全然気づかない。大人びた態度の裏は、どこまでも鈍くて、どこまでも純真な子供のような人だった。
でも、そんなイブリースを、レインは愛していた。
結局、ただ、それだけのことだった。
「さよなら、先生……」
白の世界が、終わる。
レインの意識は、あっと言う間に闇の底へと落ちていった。
目を開けると、そこは雪国……ではなく、どこまでも真っ白な純白の世界だった。
音も、景色もない。ただ、カリオンのみが存在を許された世界。
いや、カリオンと、この世界の主だけがその存在を許された世界、か。
『カリオン』
「ノア……」
なんとなく、ここに彼女がいる事はわかっていた。あの世でも、この世でもない、カリオンの未練と後悔が作り出した、幻想の世界。
今、自分の身体はどうなっているのだろう? リーサルウェポンの生成に失敗し、暴走したエネルギーに八つ裂きにされたのか。あるいは、あまりのエネルギーに耐えきれず体組織が崩壊したのか。どちらにしろ、こんな幻想に浸かっているようでは、五体満足ではなさそうだった。
『カリオン、怒ってる……?』
「……別に」
一体何に怒っているというのだろう? 自分はそんなに不機嫌そうな顔でもしていたのか? それとも、自分の身体のことを考えている間に黙りこくっていたからか?
そうやって、思考をはぐらかして、この幻想から逃れようとする。
『逃げないで』
そんなカリオンの心の内に、ノアはたったひと言で切り込んできた。ざっくりと、心地良い痛みを伴って、何重にも鍵をかけた扉を切り開く。
『そんなの、カリオンらしくない』
ノアの声が、頭の中に響く。扉が、開かれていく。ずっと閉じ込めていたものが、さらけ出されていく。
「俺らしくない? 違う、これが本来の俺なんだ」
誰にも見せたことがない、扉の中身が、溢れだしていく。
「俺はひたすら逃げて来たんだ。故郷も家族も友達も、皆捨てて、ひたすら逃げて来たんだ。自分の力を恐れて、それと向き合うことを恐れて、ただ、怖くて、ずっと逃げて来たんだ」
懺悔のように、彼の口からは重々しい言葉が漏れる。
「お前の前ではかっこつけて、強がって、どうにか見せないようにしようと、“強い自分”を演じてただけだ。俺は、弱い。どうしようもなく弱い。お前がいなきゃ、俺はまた弱い自分に……!」
『それは違う』
カリオンの言葉を遮って、それでも、どこまでも優しい声で、ノアは言った。
『あなたは、弱い自分を演じてるだけ。私の前だから、弱い自分を演じてる。怖いから。私がいなくても生きていける、それを私に見せるのが怖いから』
カリオンは、絶句した。
知りたくなかった、自分自身にすら見えないように鍵をかけていた。そんな扉すらも、ノアは容赦なく切り開いた、
『カリオンは臆病で、優しすぎる人。本当は怖いのに、それでも、あなたの優しさは、あなたが逃げる事を許さない。でもね、それがあなたの強さ』
「俺の……強さ……?」
『そう。あなたは強い。臆病だけど、でも、誰よりも強い。その強さはきっと、これからも私のような多くの人を助けることができる』
まるで自分のことのように嬉しそうな、ノアの声。それは、自分の愛した人を誇る事の出来る、喜びにあふれた声。だが、
「それが、俺の強さだっていうなら……」
だからこそカリオンは、
「俺が、その強さで、誰よりも守りたかったのは……!」
自分を、許せなかった。
彼女の愛してくれた、彼女の誇ってくれたこの強さで、何故、自分は彼女を守ってやれなかったのだ?
『ごめんなさい』
初めて声を落として、ノアは言った。
『最期まで、私の身体のことを話さなかったこと。本当に、ごめんなさい』
カリオンは初めて、彼女の最初の質問の意味を理解した。いや、本当は理解していた。ただ、それを自覚できなかっただけだ。
「俺は、お前を守りたかったのに……。この強さで、お前を守りたかったのに……。なのに、俺は何も……」
『守られてたよ』
「え?」
『私の身体は、もうどうやっても治らない。私にはそれがわかってた。怖かったの。近い将来、自分が死ぬってわかって、すごく怖かった。誰だってそうだと思う。誰だって、普通じゃいられなくなると思う。でも、私は普通でいられた。あなたが全く気が付かないほど、私はずっと普通でいられたの』
彼女はなんでもないような口調で、ただ、当たり前のことを告げるように言った。
『あなたがいたから。あなたといる時は、私は恐怖を忘れられた。あなたの強さが、私を守ってくれたから。あなたといる時は、痛みを感じなかった。あなたの優しさが、痛みを忘れさせてくれたから』
その言葉は、カリオンの中にあった最後の鍵すらも、木っ端みじんに打ち砕いた。
カリオンが抱えていた痛みも、弱さも、全部、彼女は切り開いて、そして打ち砕いた。
そして、ようやく彼は知った。
初めから強い人間なんていない。強さとは、弱さや痛みの、その先にあったのだということを。そして、彼は今、また新しい強さを手に入れたのだということを。
『……そろそろ、お別れだね』
ノアの声が、次第に遠ざかる。それは、この世界の終り。二人の世界の終り。
そして、新しい世界の始まり。
「ああ」
短く、そう返事をする。
別れの言葉は言わない。きっと、自分はノアのことを忘れられないから。
きっと、いつまでも未練たらしく、彼女の事を思い出すのだろうから。
でも、そんな女々しさを、弱さだとは思わなかった。
彼女の事をいつでも思い出せる。その痛みと悲しみを、いつでも心に刻みこめる。
そうして、自分はまた一つ、強くなれるだろう。強くなれること、これもまた、一つの強さに変わりないだろうから。
だから、彼が最期に言うべき言葉は、一つだけ。
「またな、ノア」
彼女はその言葉に、なんと答えたのか。それを聞きとる前に、カリオンの意識は闇の中へと遠ざかって行った。
第30話 終